Grassland.

まるで踊るように。

青春18きっぷの旅〜京都からおうちへ〜

最終日。

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「都野菜」という、京都のお野菜がたくさん食べられるお店のモーニングへ行く。
万願寺がめちゃめちゃおいしくて、感動した。
野菜とおかゆと、ちょっとだけうどんを食べただけなのに、お腹がぽんぽんのぱんぱんになってしまった。 
お腹がいっぱいになると、思考も動きも心もにぶる。やっちまったー、と同じしっぱいをする。




京都駅へ行くためにバスを探す。が、京都はバス停がたくさんあって、どのバスでも京都駅に行ってくれそうなのに、「京都駅行き」と書いてあるバス停がない。
都野菜に行ったときに近くに京都水族館(京都駅の近くにある)があったので歩いていくか、とあるき出す。
この旅でどんどん増えていった荷物を持って歩く。


パン屋さん。京都らしい建物のゲストハウス。すごく立派な建物だけど、「147年間ありがとう」と大きく貼ってあった小学校。龍谷大学の立派な図書館。すぐに汗が吹き出してくる。



と、次のバス停が見えてくる。


これは京都駅へ行くのかな…と時刻表をのぞき込んでいると、ちょうどバスがやってきたので、どこ行きかもわからないまま飛び乗る。
車掌さんに聞こうとするけれど、韓国人らしい若者たちのでっかいキャリーバッグが道を塞いでて前に行けない。
困ったな…と思っていると、その中の一人が「You ○○○?」と前を指さして、仲間に合図をし、道を開けてくれた。
とっさのことに「サンキュー!」も言えないままペコリと頭を下げ、前に行かせてもらう。
無事京都駅行きなことを確認し、席についてホッとしてから急にさっきの彼らへの感謝の気持ちがこみ上げてきた。

かばんをぎゅっと握りしめ、サンキュー、と思いを飛ばす。


遠くへゆきたい。

コインロッカーに荷物を預け、「ノムラテーラー」という大きな布屋さんを目指した。
とにかく今は布がみたい。
自分が着たい服が、知りたい。


と、その途中に本屋さんを見つけて立ち寄った。
本を探していると、長田弘さんの「深呼吸の必要」という本を見つけた。

懐かしい。短大時代に、先生が貸してくれた本だ。

ぱらぱらめくる。そこには、子どもから大人になるあいだのことを書いた詩が何編かにわたって書かれていた。

その一つに、「遠くに行きたい」気持ちについてかかれている詩があった。

小学生の間は、たしか自転車で行ける区間が決められていて、そこから先に子どもだけで自転車に乗って行くことができなかった。
だから、わたしにとって「遠く」はその区間を超えたところにある、憧れの地だった。


ほんとうに素敵な詩なのでそのまま読んでほしいのだけれど、その詩の最後にこんなことが書かれていて、ずん…ときた。


“”子どものきみは、ある日ふと、もう誰からも「遠くへいってはいけないよ」と言われなくなったことに気づく。そのときだったんだ。そのとき、きみはもう、一人の子どもじゃなくて、一人のおとなになってたんだ。”

長田弘 「深呼吸の必要」 あのときかもしれない 四 より)


終わりははじまり。

ノムラテーラーにはほんとうにたくさんの布が置いてあってびっくりした。だけども「これ!」という布を探すのはむずかしかった。

京都でおいしいとされているコーヒーショップに寄って帰りたかったけど、ノムラテーラーの店内がめちゃくちゃ冷えていたのと、ぽんぱんなお腹を抱えたままだったわたしは、そのまま京都駅に戻った。

帰りの電車を調べると、青春18きっぷの一日分の料金とほぼ変わらないことがわかった。
それなら、今日は現金で払っておけば、また違うときに一日旅ができるかもしれない。
しばらく悩んだけど、やっぱり青春18きっぷで帰ることに決めた。今回の旅は今回で終わらせるのがいい、とおもった。

終わるとおわり、ではない。今はまだわからなくても、またそこから始まるのだ。




電車内で、先ほど買った本を開いた。
高橋久美子さんのエッセイ、「いっぴき」。

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高橋久美子さんは、チャットモンチーというバンドのドラムをされていたのだけれど、 2011年に脱退をし、言葉に向かう活動をいろいろとされている。
チャットモンチーは好きなバンドで、久美子さんが脱退するのは寂しかったけど、ただ、そうなんだな、と思った。
そしてチャットモンチーは今年の7月をもって解散した。
(彼女たちは「チャットモンチーの完結」と言っている)

最初にそれを知ったときはもちろんさみしかった。
けれど、ずっと変身を続けてきた彼女たちにとって、それは必要な変化なんだなぁ、と思った。

続けることは、変わっていくことだ。

生きることは、とどまらないことだ。

出発前のわたしと、旅から帰って来たわたしとでは何かがちがうだろう。
それは経験を通してたくましくなったとか、旅の思い出を語れるとかそういうことではなく(そういうこともあるかもしれないけど)、昨日のわたしと今日のわたしが違うように、一分前のわたしと今のわたしが違うように、ただ変わっていくのだ。

一年後が想像できないように、一ヶ月後も想像できない。
それどころか一週間後の自分さえ何をやって何を考えてるのかわからない。

もう、それくらいに変化の早い地球で、それでも時間にそって生きている。



たとえなにもうまく語れることのなかった旅だとしても。車窓からたくさんの夏を感じた、というわたしにしかわからない旅だったとしても。

終わりははじまり。次のはじまり。



こうして、わたしの「平成最後の夏、青春18きっぷの旅〜兵庫から千葉へ〜」は完結した。


またはじまる“何か”にのって自分の頭では想像できない、それさえ超えたどこかへ行けることを自分に期待して、今日はゆっくり眠ろう。

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#青春18きっぷの旅
#これにて完結

青春18きっぷの旅〜四日目、千葉から京都へ〜

今日は、千葉から京都まで帰った。 
合わせると約9時間ちょっと電車に乗っていたことになる。
いけないことはない。ただ、個人的に一日に乗ってていい感じなのは5時間くらいまでかもしれない

でも、そこにあと2、3時間足すと自宅まで帰ることができることに初めて気がついた。 
ちょっと無理はあるけれど、行こうと思えば一日でそんな遠くまで行ける。
それがわかったことが、なんだか嬉しかった。


よこちんのお店、ポタスタ。

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千葉→東京駅まで行き、ポタスタにてサンドイッチを購入する。
ここも今までずっと来てみたかったところだ。
横地尚子さんという方がオーナーをされている。
横地さんは以前やってた「ウーマン・オン・ザ・プラネット」という海外に行きたい女性を応援する番組で初めて知った。
ちっちゃくて、かわいくて、でもかっこよくて、行動力があって。スペインに行くという彼女が出発前に言ってた、「まだ将来についてはぼんやりしてるんですよね〜でもだからなんとなくスペインに行ってみたいです!(それを知るために、だったかも)」的なことを(間違ってたらごめんなさい)言っていたのをすごく覚えてる。 
将来がぼんやりしてるってことがはっきり言える彼女がかっこいい、と思った。
モデルをしたり、演技をしたり。(今どこにいるのかよくわからない。海外かもしれない)そんな横地さんはもともとサンドイッチと野菜が大好きで。そんなところから生まれたお店。
たっぷりの無農薬、無化学肥料の野菜が入った、サンドイッチ。
とてもおいしかったです。


日本の車窓から。

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電車に乗り、京都へと向かう。
昨日までは“行く”旅だったけど、今日からは“帰る”旅だ。
同じようで、ぜんぜん違う。
なにが違うんだろうと思ったけれど、たぶんドキドキ感だ。
特にまだ自分の中で未開の土地に行くときには、「これからどうなっちゃうんだろう」という少しの緊張感と、ドキドキがある。
そしていろんな感覚が研ぎ澄まされる。
それがいいんだと思う。

そして一人旅は、どこまでも一人だ。
こうしてブログを書いたり誰かに連絡したりすることはできるけれど、日常の中で身近な人と関わっているいつもの時間がない分、自分との関わりがぐっと増える。
こんなにも自分とだけしかいない。

いつもオフしているところが、オンになる感じがした。





電車に乗っていると、携帯をしている人、寝てる人、音楽を聞いている人が多い。
わたしも今まで移動中はよく音楽を聴いてきた。
でも(もしかしたら他の人はそんなことないかもしれないけど)音楽をずーっと聴いていると、途中でなぜか飽きてくる。
窓の外をぼんやりと眺めている方が、(個人的には)意外と飽きないことに気がついた。


窓の外を流れる景色は、一つとして同じものはない。
同じように見える木々でも、畑でも、川でも、ぜんぶ違うものだ。
それがすごい。


海外の方もたくさんいた。
家族と娘の彼氏?的な人たちが4人で乗り込んできた。
彼女と彼が隣同士で座る。(彼のほうがすごく日本人の顔をしていたのだけれど、言葉とか仕草を見ると、やっぱり海外の方だったように思う)時々彼が彼女の肩にキスをする。んー?と振り返る彼女。何かを話す。見つめ合う。おでこをくっつける。また話す。
周りなんかぜんぜん気にしないその二人がなんだかとてもいいなと思った。




釣り広告に、「面接の練習のために」的な言葉を見つける。
働くための面接って一体何なんだろうと思う。
練習して見せている自分は、なんの自分なんだろう。




RADWIMPSの「謎謎」が突然聴きたくなる。
以前ぐわん、と落ちてどうしようもなくなったときに、よく友だちが「だから、RADWIMPSの謎謎を聴きなさい」と言ってくれていた。


「内側からは君にだけしか見えないのに
外からは僕にしか見えないものはなーんだ
君からは決して離れようとはしないのに
僕からは平気で離れてくものはなーんだ

僕が嘘をついてもきっと分からないのに
君が嘘をつくとすぐ分かるものはなーんだ
悲しい時は無理して笑ってみせるのに
嬉しい時は涙を流すものはなーんだ」


なーんだ。



踊るシヴァ神

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またまた吊り広告で、名古屋ボストン美術館で「ハピネス」というこの美術館最後の展示会がある、ということが書かれていた。
そこに写っていた像がなんだか見たことがある像で、その下には「踊るシヴァ神」と書いてある。
調べると、ヒンズー教の神様で、三神一体の中の“破壊”を司る神様らしい。
彼の踊りは宇宙のリズムであり、統一性の想像で存在のリズムであり。世界の寿命が尽きたとき、世界を破壊し、次の世界想像に備える役割を持っておられるらしい。

破壊と創造。

今、それぞれ一人ひとりの世界の中でそれが起こっている、まさにそういうときだ。



きしめん「住みよし」のおばちゃん。

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名古屋駅ホームのきしめんがやっぱり食べてみたくて、そのためだけに途中名古屋で一旦降りる。

きしめん住みよし。
在来線ホームにある、中でも一番(?)有名らしい1、2番線のお店に行く。
お店に入ると「いらっしゃ〜い」とやさしいおばちゃんの声。
ホームの人はお客さんが急いでる場合が多いから、よくもわるくもテキパキしてるイメージだったけど、ここのおばちゃんはそういう感じがまったくせず、なんだかお店の中がまろやかだった。
わたしの横にスーツの男の人が三人きしめんを食べていたけれど、まるでおばちゃんの子どもたちのようだった。
そして、お店を出るときにはそのまろやかな空気感をまとって出ていくような気がした。

ニュートラルでいることって、こういうことかと思った。






京都に近づくにつれて、田んぼが多くなる。

きれいにそろえられた田んぼに、夕方の光が走る。

まるで、遊ぶように。

川にも、木にも、街にも。

わたしにも。

金色の光は、みんなに走る。

きらきらと、わらうように。

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青春18きっぷの旅〜三日目、東京、千葉〜

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名古屋から東京方面に向かう。 
名古屋はモーニングが有名なところらしい。ドリンク一杯の値段で普通にトーストやサラダが出てくるのが当たり前だ、という文化があることを知って驚いた。
同じ日本なのに、全然違う文化だ。

小倉バターのモーニングも食べたい。しかし名古屋駅のホームにある“きしめん 住みよし”が漫画「いつかティファニーで朝食を」にも出てきたところだ、ということに気づき、そこに決める。6時から開いてるとどこかで情報をつかんで行ってみると、7時からの営業だった。しばらく待ってようと調べものをしていると、千葉にある一番行きたいカフェが明日からは二日休みなこと、また(ランチは)15時までの営業なことがわかる。 
調べると、6時45分の電車に乗って14時前に着く、とのことだった。ぎりぎり!
きしめんは諦め、電車に飛び乗る。

茶畑のための旅。

名古屋から豊橋へ。そして静岡県へ。
新幹線で通り過ぎたことはあるものの、降り立ったことはない静岡。
浜松(静岡)→熱海(静岡)までは鈍行だと2時間以上かかる、ということに気づく。
長い。
でも、2時間映画を観ているのだ、と思うことにする。
車窓から見える風景の。

そういえば、車窓から眺める景色が好きだった。
どんどん変わっていくのが面白い。

外側の世界は、自分の内面が100%表れているのだという。
そう思えば、なおおもしろい。
確かに、自然を通して心を見るのは、わかりやすいような気がする。
そういうことで言えば、たとえ隣にいる人でも、見えている景色は全然ちがうかもしれない。

ぽつり、ぽつりと茶畑が見えてくる。 
青々とした緑がなんとも美しくて見とれてしまう。
ほんとうにちょっとナナメになってるとこに畑があったりするんだなぁ、と感動を覚える。
茶畑が増えてくる。そのたびに、わぁすごいすごい!!と言いたくなるが、誰も茶畑なんて見ていない。(わたしも静岡人だったらきっとそうだろう)
茶畑の美しさに、もうこの旅は茶畑を見にくるための旅だった、と言ってもいいような気がしてきた。

これは保育雑誌に載っていたのだけれど、動物園に行ったあと子どもに「どうだった?」と聞くと、「セミがいたよ!」と答えたという話。
大人はこれを聞くと、たぶんちょっとがっかりする。動物園行ったのにさー、とか、私の関わりが足りなかった…?とか。
でも、ただただその子は感動したのだ。
そこにセミがいたことに。

物事もそれでいいのかもしれない。
今この時点で「旅はどう?」と聞かれると、わたしは「茶畑が美しかった!」というだろう。
相手の期待した答えとは違うかもしれないし、会話もそれで終わりそうだ。
でもそれでいいのだと思う。なにをしたとか、なにが起こったとか、そういうことじゃないんだ。
茶畑が美しかった。空がうすい水色で、入道雲は雲に映る陰がもこもこしていて素敵で。
伝えにくいけれども、それでいいんだ、と思った。
電車の広告には、「何もない一日を、愛する。」と書いてあった。

熱海のための旅。


熱海に着く。
熱海って有名なところだよなぁ、それにしても静岡は広いなぁ、と思っていると、突然窓の外に海が広がった。

海!

どこまでもおおきい。どこまでも広い。水平線が見える。水面が、きらきら、きらきら、静かに静かに微笑んでいる。

うみ!

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これが熱海の海なんだろうか。
よくわからない。
とにかくどこまでも、広い。
海でウクレレを弾くところを想像した。とてもいい、と思った。
その時に思い出したけど、そういえば車窓から海が見たかったんだ、と思った。 まさにこんな海が。 
ほんとうに美しい。(写真は窓越しなので、ちょっとくすんでしまったけど)
ありがとう、と思った。


自分のための旅。


なんとか、カフェの最寄り駅に着く。東京理科大学の近くだった。
そこから約15分。

cafe oniwaは突如現れた。

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なぜここに行きたかったのか。それは「古カフェ系ハルさんの休日」という全国の古民家を使った古カフェを巡る番組で、“森の精霊たち?がつくったカフェ”として紹介されていたからだ。
ほんとうに森の精霊が出てきそうなカフェ。
使われていなかった古民家をリノベーションされたらしい。
そして、地元のこだわりの野菜を使っているランチが食べられるとのこと。


今まで見たハルさんの番組の中で、一番行きたいと思っていたところだった。
でも千葉だから、行けることなんてないよなーと思ってた。 
でも、きちゃった。
来れちゃった。  



二階に案内してもらう。
店の中なのに、木が生えている。
まるで、森の中にいるかのようだ。
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土鍋のランチセットをお願いする。

ご飯が来るまでの間、テラス席も見せてもらう。
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ランチは、野菜が甘くて、やさしくて、すごくおいしかった。
五分づき米も、柔らかくて口の中でふんわりとなくなっていくのがなんともおいしかった。

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わたしはとても満足していることを感じていた。
行きたいと思ってた場所に、自分がほんとうに連れてきてくれたこと。
そのことが、ただただ、心をゆっくり静かに包み込んでくれ、何もかもが溶けてほどけていくのを感じていた。


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もう大満足。あとはもう帰るだけ。
今すぐ帰ったっていい。
くらいの気持ちになりながら、(途中布屋がたくさんあることで有名らしい日暮里に寄るものの、布ではなく買いたかったビーツを見つけて4つも購入しながら)宿に向かう。
一旦日暮里(東京)に戻ったため、なんで千葉に宿とってしまったんだろ〜と思っていると。

窓からみえた!!

ディズニーランドが!!!

ものすごく広い敷地にいろんなものがきらめいて。
遠くにシンデレラ城も見えた。

あ〜、これが見たかったんだ、と、車窓から眺める。

車窓からみるものが好きだ。もう熱海も、ディズニーランドも、まるで行ったかのような気分になった。
いろんなものをみせてくれて、ありがとう。


嬉しくなる道。

もう体が眠くて携帯見るのがつらいくらいなのだけれど、書いておきたいことがある。
もう、自分が自分であろうとすればするほど、お金のことがわからなくなってくる。
もちろんこの旅ができているのも、お金がいてくれるから。
お金は大切だ。
だけど、もうなんだかわからない。

たぶん、自分の価値をお金で見たり、価値にお金を乗せることはだんだん古くなっていくんだと思う。
いつ頃かはわからないけれど。
そんなことしなくても、自分が自分である限り価値は死なない。
逆に、自分が自分でないと、どれだけお金を持っていても不安に消されてしまう。

もちろんこわい。これからどうなるのかわからないし、1年後なんて想像すると10年後のような気もしてくる。
だけど、“わたし”はいう。

大丈夫だよ。心配しないで。大丈夫だから。

そうやって、笑う。

もっと攻めろ。もっと狂え。もっと自分になって。


そんなことをぶんぶん思っていて、ふと坂爪さんのブログ記事を読んで、カプセルホテルの中で声を殺して泣いた。

http://ibaya.hatenablog.com/entry/2018/08/02/100957


嬉しくなる道が正解だよ。

ほんとうにそうだ。

ほんとうに、そうだ。

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青春18きっぷの旅〜二日目、奈良から名古屋ヘ〜

ターシャと出会う。

奈良でモーニングを探していると、泊まっていたところから徒歩15分くらいのところに厚焼き卵サンドがおいしそうなカフェを見つける。

たかだか徒歩15分、と思うけれど、歩き出して見ると暑い。荷物がおもい。着く頃には汗だらだらになっている。

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cafe zuccuはレトロでおしゃれなお店だった。
そこにあった本棚の中に、ターシャ・テューダーの本を見つける。
ターシャの庭にはなんでも植わっていて、それはすてきなお庭&おうちだ。(映画にもなっている)
そこに書いてあった言葉に衝撃を受ける。

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「私は庭でとれる材料を使って、なんでも作れます。ストロベリーとルバーブのパイでも、ラズベリーパイでも。」

「植物を鉢から地植えしたり、植え替えたりしたとき、移植のショックをやわらげるためにその上に植木鉢をかぶせておきます」

庭でとれたもので、そんな素敵なものを作れる世界があるなんて。

そして移植のショックをやわらげる、なんて、考えたことがなかった。

植物たちとほんとうに一緒に生きているんだなぁ、と、じんわりした。

そして、家にターシャの「思うとおりに歩めばいいのよ」という本を買って持ってることを思い出した。
 今、読みたい。


心のドアはどこに開くか。

奈良を出て三重を通過し、名古屋に向かう。
名古屋につくまでの間、鈍行電車は緑豊かな大地を夏の景色とともに駆け抜けてくれた。

そういえば、平成最後の夏らしい。

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平成最後の夏は、特に緑がよく映える。ような気がする。
もぎたてのとうもろこしが食べたい。
あまーいスイカに思いきりかぶりつきたい。
熟れたトマトが食べたい。




そんなことを思いながら窓の外を眺めながらぼんやりしていると、電車の中でアナウンスがあった。

わたしは耳を疑った。


「ドアは内側に開きます。
出口は左側に変わります。
左側のドアが開きます。」

もちろんただのアナウンスだ。
だけれど、なんだか突然、心のことのように聞こえたのだ。

あなたの内側に向かって、扉は開きます。

どんどん地球は、あなたは、右から左に変わるように、まるで正反対のように思えるくらい、変わっていきます。

そして、また扉が開きます。




心のドアは、内側に向かって開く。




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忍者、というワードにつられて、伊賀上野駅で途中下車する。
忍者博物館、というのがあるらしい。
行こうかと思ったけど、なんとなくやめる。
すると次の電車は一時間後であることがわかる。
どうしようもないので、ホームの椅子に座る。
外国の人、親子連れ。おじさん。若もの。
ぽつりぽつりと人があらわれたり、向かいのホームで電車とともに消えたりする。
ぬるい風だ。でもたまに吹く冷たい風が気持ちいい。

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なにもしなくてもいいんだなぁ、と思った。
なにをしてもいいんだなぁ、と思った。
その瞬間、世界のすべてがそこにあった。
わたしは、ただただ安心していた。


なんのための旅か。
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名古屋に初上陸する。
さすがは大都市、ビルが多い。人が多い。
みんな忙しそうだ。
そしてまるで外国のようなスタバもある。

そんな中、突然ぴーんときて手芸屋に向かう。
やっぱり子ども向けに作るのがいいらしい。
また片道徒歩30分。。
手芸屋では近所の店で300円ちょいくらいで売っているフェルトが240円くらいで売っていて種類もたくさんあり、わっほーい!と購入する。
いよいよリュックに入らなくなり、ちょっと申し訳ないけれどもウクレレのソフトケースがサブバッグになりつつある。


名古屋のカプセルホテルには洗濯機と乾燥機があり、その素晴らしさに感動する。
乾燥機が使えると、干さなくてもいい…!!!(洗濯セットでロープと洗濯バサミを持ってきている)


とここで、その一方でなんだかあてのない旅に飽きてきた自分をみつける。

なんのための旅なんだ?
なんのための?
お金もかかる。あつい。おもい。
別に行かなくてもいい。
なぜ行くんだ?
なぜ?


そんなことを思いながら、また次の宿を検索しながら。
わけがわからなくなって、寝た。

すると夢でAちゃんが出てきた。
Aちゃんの家族と、ご飯を食べている夢。
起きたときにも、まだ夢の続きのようで。
だから聞いてみた。
すると彼女は言った。

「行きなさい。行ったらええやん。遠くまで」

そんなようなことを、言ってくれた。

そうなのだ。別に目的が目的ではなくて、ただただ遠くに行ってみたかったのだ、わたしは。
遠くに行きたい。
それはたぶん、昔から思っていた。

みずがめ座は、家庭に恵まれてはいるけれど、なんかそこで満足しきれない感じがある、というのを読んだことがある。

“あなたには、みんなロマンをみています。
「ここまではこうだった」「これからどうなるのか」と考えずにその時の音楽に合わせて踊ること!人生はダンスであること!あなたのダンスは、周りの人を魅了します。人生を気負いすぎないで。安心して変人でいていいのです。”

勝手にダイジェストにしたけれど。

そうだ。そういうことだ。

ダンスであること。

きっと今これを読んでくださっているあなたもそうだ。

人生はダンスであること。

みんな、好きなダンスを踊ろう。

だから、わたしは今回はただただ遠くへ行く。


今は千葉に向かっています。
「古カフェ系ハルさんの休日」にでていたカフェに行くために。

目的なんてそんなもんで十分だ。

#青春18きっぷの旅

青春18きっぷの旅〜一日目、京都、奈良〜

麦わら帽子とリュックを持って、始発に乗る。
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青春18きっぷで、旅にでた。
あまり目的はない。奈良の三輪山に登るのと、あとは「古カフェ系ハルさんの休日」にでてくる古カフェに行けたらなーと、それくらいだ。

でもなぜかこのときに行きたかった。
たぶん、ひとつは、おっきな麦わら帽子をかぶってリュックをしょって旅に出たかったこと。
そして、青春18きっぷを使ってみたかったこと。
あとは旅、または計画的な家出をしたかったのかもしれない。

そんなこんなで、始発に乗って出発した。


一日目は京都、奈良。



最近ウクレレをしてみたくて、どこかで連れて帰るような気がする、と思っていたら一日目の午前中に出会ってしまった。
ネットで調べて、これくらいの値段かな…と思っていたまさにその値段のウクレレだった。
よくわからないけれどもソプラノウクレレを購入する。
旅のおともが増える。
(ただ荷物がおもい)

京都の嵐電に乗る。
たまたま一番後ろに乗り、振り返ると大きな窓から後ろに過ぎ去っていく街並みがよく見えた。
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電車から降りた人がどんどん後ろに過ぎ去っていく。
まるで過ぎ去る景色や人々が次々にふわりほわりとほどけていくようで、おもしろくて目が離せなかった。
そして、踏切に目がいく。
よく考えれば当たり前なのだけれど、電車が走り去ったあと、それぞれの踏切が一つも「おれは上がらねぇよ」ということなく、きちんとあがって行く様子に始めて気づいた。
そのさまに、心を打たれる。

そしてそれを見ながら、RADWIMPS「なんでもないや」が頭を流れた。
(「君の名は。」にでてくる曲です。今まで“私と誰か”という視点で聴いていたけれど、ふと“わたしと私”の視点じゃないかと思って聴くと、すげぇきました)
あぁわたしがどこへ行こうと行かなかろうと、何をしてようとしてなかろうと、この“わたし”はわたしとずっと一緒に居てくれるんだなぁ、嬉しいなぁ、と突然じんわりきました。

そうなんだ。 
そうなんだよ。


家出がしたい。

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お昼から三輪山に行こうと思っていたけれど、受付に間に合わないことがわかり、時間がぽっかり空く。
とりあえず奈良に向かう。
せっかくウクレレ買ったから弾いてみたい、と思い奈良公園に行こうとする、が、結構駅から遠かった…。
その頃には汗かきまくりのリュックで背中が蒸れまくりになっていたので、だんだん疲れてくる。 
左足の付け根が痛い。
こうしてまた自分と離れそうになっちゃうんだよなぁ、と思う。

なんとか奈良公園についてちょっと一休みできたものの(ウクレレも弾いた)、始発に乗って早かったからか充電がほぼなくなりかけてることに気づく。
コンセント&Wi-Fiが使えるカフェを探し、やっとお店の椅子に座る。
Wi-Fiが使える!充電できる!となると、どっと安心した。
こんなにもか、と思った。

旅に出る二日前、なぜか家の中のどこにいても落ち着かない気持ちになった。
どこかに行きたい。行けないことはない。でも、
とやっているうちにタイミングを逃した。
あれはなんだったんだろう。
でも家にいたくない、という気持ちを抱えると、ほんとうになんだかつらい。
どこでもいいからたむろしちゃう気持ちもわかる。

と思いつつ、旅に出たら出たで、今日の、明日の宿はどうしよう、と検索しまくってる自分がいて、なんだかおかしかった。

それに、京都や奈良はまだよく知っているところだ。
なんとなくわかるし、他県とはいえすごく安心感がある。

だけどあまり行ったことのない中部、関東地方の、特に一回も降り立ったことのない県で宿を探すとなるとどうだろう。
日本内だし言葉も通じるのに、こんなにも不安になる。
あー、すげぇ、そうなんだなぁ、と思った。


彩華ラーメンが食べたい。
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奈良に(大阪にも?)彩華ラーメン、というラーメン屋さんがある。
ちょっとピリ辛で、でも野菜がたくさん入っていて、おいしい。
奈良の友達に教えてもらってからこのラーメンが好きで、奈良に来るとよくこのお店に寄る。

彩華ラーメンが食べたい、と思って調べると、最寄りの店舗がカフェから徒歩40分のところにあった。
40分かぁ、なら歩くか。
そうやって足が痛かったことも忘れてまたスイッチを入れてしまう。
そういうとこだ。

やっぱり痛い…と思いつつしばらく歩いていると、リュックのチャックが全開になってることに気づく。
あーまじか、めっちゃ開いてるやん、と閉めようとして、はっ、と気がつく。

もしかして開けられた!?

財布を探す。ない。探す。ない。
財布の中にカード類や青春18きっぷ、ほとんどの現金を入れていたことに気づき(小銭入れは別に持ってたけど千円ちょいしか入れてない)、あーやばい、帰られへんかもしれん、お金下ろすにもカードがない…という事態に陥る。
以前も、フェスに行ったときにリュックに入れてた財布を取られたことがあった。
その時は別で置いてた現金があったからなんとかなったけれど、今回はほぼない。
友だちが、カードと現金は一緒に入れない方がいいんやって、って以前教えてくれていたことが頭をよぎる。
ほんまやわ…

と、ふとリュックに入れてた巾着袋を開けてみる。
と、そこにあった。

財布があった!!!

さっきカフェで何気なくそこに入れていたらしい。

よかった!!!


たぶん、こういうことをしてしまうから(そして懲りないから)大丈夫??と心配をかけてしまうんだろうなー、と思った(反省した)。



もうほんとうに、全て完璧。
ありがとう…!!!!!✨✨✨✨✨ともろもろお礼をしたり、クリーニングをしたりしました(今した)。
気をつけていこうと思います。




いろいろあって暑くてどろどろに疲れたけど、どうやら7月のこの最後の方は星がいろいろ逆光してて、過去を思い出したり?する時らしい。  
まさに、今日は7月の最後の日!
わたしはこの前どろ臭く生きるのをやめる、と決めたんだけど(今までどろ臭く生きたかった)、ある意味すごくどろ臭い一日で、あぁそう言うことだったのかもなぁ、と思った。


片道40分(以上)かけた彩華ラーメンは美味しかったです。 
ただこれだけでも、もうお腹がぽんぽん…苦しい!!!ってなったので、ほんとうにだんだん省エネルギーで生きる身体になってきているんだなぁ、と思いました。

まるでこの街を見守るクジラのような雲がとても、美しかったです。f:id:yuki6225:20180731230728j:plain

片付け祭りは変化のはじまり。

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暑い!!夏だ!!!
記事を最後まで書きかけた。が、消えた。

家の中が暑くてまいってるのに泣ける…と思いながらまた書きます。。

片付け祭り。
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一年前、片付け祭りをした。

こんまりさんという片付けの達人がいる。
その人のやり方を実践すると二度と散らからないという、魔法のような片付け方だ。

最後までやり遂げるという覚悟を持つこと。
それさえあれば必ず終わります。

その言葉を胸に、片付けを始めた。
服、本、いろいろな小物………。
驚くことに、片付け祭りをしたあとはほんとうに部屋が荒れなくなった。
ものの位置を決めてそこに置く。
使ったらそこに戻す。

それだけのことが、わたしは十数年できなかったのだ。

それだけのことが、わからなかった。

今でもものがぱらっと散らばることはあるけれど、すぐにもとに戻すことができる。
し、片付けてほしいところがなんとなくわかるようになった。

片付けをしていくと、今まで気になっていなかったものが気になるようになった。
家族それぞれの部屋は(気になるけど)それぞれを信頼して任せるとして、部屋の次に台所を片付けた。
片付けているともうずっとそのままやり過ごしていた場所やものもあり、ぞっとした。ぞっとしながらも片付けると、きれいになった。

そして一年たった今、急におばあちゃんの部屋が気になるようになった。

おばあちゃん部屋というのは、昔おばあちゃんが使っていた増築した部屋だ。おばあちゃんがいなくなってから、客室になったり、今では使われなくなった台所が半分物置化していたりする。

わたしの部屋は二階にあるクーラーのない部屋なので、夏の昼間は特にいられない。
なのでおばあちゃんの部屋で作業することも多いのだけれど、

なんか、この部屋の気が変だ。 
滞っている。

と急に思うようになった。 

実際には以前からうすうす思っていたのだけれど、はっきりと感じてしまうと、もうその部屋に長居できなくなった。

こんまりさんは物の声が聞こえることがあるという。

これは部屋が“わたしを片付けて”と言っているんだ、と思った。
おばあちゃんに片付けてもいい?と聞くと、いいよ。わたしはもう身体がないからできなくてねぇ。ありがとう、と言われているような気がした。




余っていた防じんマスクをつけて挑む。
きたなさには無頓着なところがあるわたしだけれど、苦手なものがひとつある。
それはホコリだ。
(これは特に家で感じることだけれど、ホコリがずっと存在しているな、と思う部屋には、たとえクーラーがついていても長居できないようになった。暑いからこっちで寝ていいよ、と言われても、行けなかったりする)
ホコリの存在を感じ取るとだめなのだ。
いろいろと想像してしまう。。。

マスクをつけて、いざ!!

でも片付け祭り!と言っても、半分くらいは父が以前手を入れていたようで、わりに早く終えることができた。

見える部分が片付いて「きれいになったな」と思うのは当たり前だけれど、見えないところが片付くと部屋が軽く見えるのはなぜだろう。





片付けて思ったのは、片付けも変化だ、ということ。

変化をすると、いろいろなことが変わってしまう場合がある。
今までとても大切にしていたものが急にどうでもよくなるかもしれないし、ちがうことに目覚めるかもしれない。見ないでおこうとした新しい自分が見えそうになってしまうかもしれない。

もしかするとだから、片付けないのかもしれない。 
変化しないことは楽だ。今までと同じでいいのだから。

だけれど、わたしたちがどちらを選ぼうと、地球は変化していく。時代は流れる。

その中で、ほんとうはどうしたいのか。

片付けたいのか、片付けたくないのか。

変化したいのか、したくないのか。

新しい自分に会いたいのか、会いたくないのか。

どちらでもいい。わたしたちは、選ぶことができる。

だけどわたしは、わたしに会いたい。

あー。自分の部屋の声、もうちょっと聞いてみよー。
そしてこんまりさんの本も、もっかい読んでみよう。


あつい夏の始まりです。
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恋人でもない人の頬に、キスをしたことがありますか?

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北イタリアを舞台にした映画を観た。


まず概念の違いにぶっ壊された。

私たちが「こういうものだ」と“自分で”思ってる、と思っている概念は、実は日本の概念であることも多い。
国を越えるだけでぜんぜん違うものになってしまう。
挨拶でキスとか、いくら夫婦といえども子どもや人前で軽々しくキスなんてしないもんな。
てか映画内でR指定しなくていいの!?っていうシーンもたくさんあったし。直接的な描写はないけど、明らかに未成年がお酒飲んだよね、みたいなシーンもあったし。
あと映画にもよるかもだけど、「忙しいぜ!!」って感じの人がぜんぜん出てこない。
むしろ果樹園があり、戸外に食事テーブルがあり、めっちゃ毎日バカンスしてる、みんな(そう見えた)。


国を越える、それだけでこんなに違うんだ。


そしてイタリアやフランス系の映画をたくさん観たことがあるわけではないんだけれど、日本の映画と比べて“間”が独特で、言葉が少ない。
だからこそすごく自然だ。
だから、俳優さんや監督、スタッフがいて、カメラさんが撮ってて、っていう当たり前に映画が撮影されているっていうより、誰かの人生のいちシーンをそのまま流してる感じがした。

映画なのだ。
私たちだって。
彼らだって。

うまくいかないこともある。想いが伝わらなかったり、逆にめちゃくちゃ嬉しくなって幸せでたまらなくなったり、どうにもできないことで涙がつたったり。

変わらない。映画の中の彼らと。

映画の中で言っていた。
「映画は現実を写す鏡だ」と。







舞台が35年前なんだけど、まだ携帯なんてみんな持ってなくて。
それがまた美しかった。
今、わたしたちの生活から携帯がなくなったら何をするだろう。 
暇なとき、どう過ごすだろう。
家族と話すだろうか。本を読むだろうか。川に泳ぎにいくだろうか。ぼんやりするだろうか。会えないあの子を想うだろうか。

これはたまに思うのだけれど、携帯がなかったら一緒にいる相手がちょっと席を立ったとき、どうするだろうか。
何を見るだろうか。
それが好きな人ならば、空いた空間をぼんやり眺めるだろうか。相手のことを考えてふっと微笑むだろうか。店先ならば窓の外を眺め、風景を楽しむだろうか。

今でも十分できるし、やっている時ももちろんあるだろう。
ただ、携帯を持っているわたしたちには誘惑が多い。
あなたたち(SNS)と、どう付き合っていきたいのか。




話しがそれた。




「痛みを葬るな。その時感じた喜びも忘れずに」




って、言ってた。
ほんとうにそうだ。



いろいろ思ったけど、想像以上にうまく言えない。
だけどわたしたちは、ほんとうにいつも、毎瞬毎瞬、懸命に生きてるなぁ、と思った。
人間ってすごい。
人を好きになるってすごい。
生きてるってすごい。

すごいんですよ。わたしたちは。

あなたは、すごいんです。

それだけです。