Grassland.

まるで踊るように。

自然への畏怖。おそれていたのは、わたしだ。

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持ち物は、おにぎりふたつ。あとぼりたてのきゅうり。
それをカバンにつめて。
今日の冒険に、出発した。


自然の畏怖と猿尾滝。

猿尾滝。
日本の滝100選に選ばれたとかなんとかいう、滝。
ふと行きたくなった。
だけど1、2年前に一人で行ったとき、自然の畏怖をとても感じて、こわくてこわくて近付けなかった。
そんな滝。

でも、「神さま」っていう存在は自分より立場が上であがらえない存在ではない、なぜなら全部自分だから。
自然だってそうだ。

そういう話を聞いて、それなら行けるかも、と思った。

久々の猿尾滝に到着すると、一組の観光の方がちょうど帰られるところだった。ペコリと会釈をしてすれ違い、滝に向かう。
今日の猿尾滝は、なんだか穏やかに感じた。

なるべく滝の近くまで行く。
ごうごうという音が近づいてくると、少しこわい。
でも近づけるところまで近づいて、川の中の大きめの石に座り、滝を見上げた。

どうどうという音をたてながら、勢いよく流れてくる、滝。
滝の音がすごくてそれが静けさを奪い、静けさの代わりの音になり、逆に川のせせらぎの音がふと耳に飛び込んできたりする。
ただ滝を見上げる。
激しく岩を打ち付ける滝は、一秒だって止まることはない。
それを見ていて、わかった。

あのとき、わたしは、滝に自分を見ていたんだ。
いつまでもとどまらずに激しく流れる滝がまるで本気の自分のようで、怖かった。
情熱のある人は好きだ。だけど同時に怖い。
本気の部分が見えると、それに焼かれそうだと思ってしまう。
自分にもあるにも関わらず。
だから、滝が見れなかった。

でもそれも自分の一部だ。
滝だって、自然だって、神さまだって、自分の一部のように。


ただただ滝の一点を見つめていると、大きな岩たちがゆるやかに動いているように見えて、あぁ生きているんだな、と思った。
涼しく頬をなでていた風が、ふっとあたたかい布団のように身体を包んでくれているように感じた。
わたしはどうしたらいいの?と滝に聞く。
すると。

『もっと狂え。もっとあなたの感性で生きろ。』

そう、言われている気がした。






自然はただただそこに在るだけだ。
自然はやさしい。
そこに自分を投影して、厳しかったり、威圧していたのは自分だ。
ただ、在るだけだった。

「もう、いきなさい」といわれても、久しぶりに母にあった小さなこどものように、離れがたく思った。
いつまでもいつまでも、見ていたかった。

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狂え。ほんとうにそうだ。
もっともっと狂ったっていい。

この前、TSUTAYAでふと目に止まり、気になって星野源のアルバムを借りた。
ポップな曲を歌っている人だ、くらいの印象しかなくて、全然興味もなかったけど、アルバムを聴いて初めて思った。

あんなに草食系の顔をしているのに、この人、からだの中に獣がいる。
その獣をぐわんと出して、それで曲作ってる。
想像以上に(いい意味で)狂ってる。

もちろんただの個人の感想だけれど、その狂い具合がすごく好きだと思った。


また、今日見た本の中にこんな言葉があった。
(メモしてないから言葉がちょっと曖昧だけど)


“あなたがげらげらとわらいだすまで

わかった、やってみるよといいだすまで

いますぐにここでそれをためすまで

わたしはつたえることをやめない”

(「yes」高砂 淳二、覚 和歌子)


それだ。









今日は猿尾滝のあとに植物園にも行ったんだけれど、まるで小さなアリスになったかのような気持ちで冒険した。
ほんとうに物語を追っているようだった。
それは次のブログで………(書けますように)


最後に、大好きなcafe Lokahiさんで頼んだアイスコーヒーの琥珀色が、まるで夕焼けみたいで、まるでどこかの国がこの中に存在するみたいで、とてもきれいだった。
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ライフ・イズ・バカンス

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「あなたは、どんな人ですか?どんな性格ですか?」と言われたら、なんて答えますか?


あなたは誰か。
この頃、二極なことを言われることが多かった。
いつも通ってる美容師さんと話してて、わたしが眉毛の整え方がよくわからない、というようなことを言うと、「有希ちゃんって、あまり化粧しない?」と言われた。(いや、普通に化粧して行ってるけど!とは言えなかった)

かと思うと、ある友だちが「有希は化粧上手だね。自分に合った化粧の仕方知ってる」と言ってくれたり。

「落ち着いてるね。もっと年上かと思った」
と言われることもあれば、
「有希ちゃんって元気やんな〜。明るいし、前向きだし」
と言われたこともある。

なにが言いたいかというと、あぁまじで人から見た自分ってそれぞれによってバラバラなんだな、ということ。

だいいち、わたしは自分のことを明るいとか元気だなんて思ったことはない。上記の言葉を言われたときも、思いきり否定してしまった。
だけど、それはそれで“自分は自分のことを明るくなくて元気でもない、特に前向きでもない自分”だと思っていたんだ、ということに気付いて、衝撃を受けた。
そういうやつ、って、自分を決めつけていたんだ。
無意識のうちに。

え?
わたしは、どんな人物なんだ?
と、わからなくなった。
でも、自分にそう思い込まれてるって、嬉しくない。
嬉しくないよ!!


もしかすると。
“自分”って、自分でさえも定義することができないのかもしれない。
そう思った。


あなたは誰だ。
どんな人なんだ。
わたしは誰だ。

でも。大きく言ってしまうと。

真理を言ってしまうと。
あなたはわたしだ。
わたしはあなただ。
世界はただ自分の内側を反映しているだけだ。(しかも100%)


だけれども。


だけれども。


惹かれるものは人によってちがう。
ときめくものも違うし、愛してる人だってちがう。
してる仕事もちがう。出会う人もちがう。

じゃあ、なにを愛そうか。
わたしは、わたしの世界で、なにを愛そうか。

感情が揺れるものはやっぱり好きだ。
たぶんまだまだ、人間だから。

もうなにを決着つけたいかわからなくなってきたけど、この記事何度も書き直してるのでなんか書きたいんだと思う。


遊ぼうぜ。

わたしは、わたしでさえも定義することができない。
なぜなら、そんな枠はいらないから。
もっともっと先にまだまだあるから。

わたしなんかの想像を遥かに超える、バカンスが。

ライフ・イズ・バカンス。

この頃、そんな言葉が頭にあった。

するとしいたけ占いで、過去の水瓶座のところにこう書いてあった。(しいたけ占いまじで面白いです。最近まで知らんかった。オススメ)

「人生はちょっと塩辛いこともあるバカンス」

うおーーー!!!!!ほんまそれー!!!
ってなりました。

ライフ・イズ・バカンス。

いい言葉だな、と思う。


遊びにきたんだぜ、みんな。

遊ぼうぜ。

バカンス、しようぜ。

Happy Happy Weddingによせてー毎日がエブリディ。

坂道と自転車とわたしと。f:id:yuki6225:20180612000214j:plain
坂道を上る。果てしなく続く坂道を上る。なるべく途中で自転車を降りない。なぜって、自分に負けたような気がするから。
往復のバス代がもったいないから、倉敷まで片道1時間半かけて自転車をこぐ。

ー8年前だ。
そんなふうにして岡山の児島で、短大生活を送っていた。

6月吉日、短大仲間の結婚式があり、久々に車で児島に行った。
場所というのは、強烈に記憶を呼び覚ます。
運転しながらはっと気づくと、そこに坂道があった。間違いなくあの坂道だ。
あの日、必死になって自転車をこいだ、坂道。
なつかしい。
とんでもない距離だった。今思えば、だけれど。
あの頃のわたしと、リンクするかのように記憶が蘇る。まるで自転車をこいでいるわたしがそこにいるかのようだった。

そのとき。

大丈夫だよ、と声をかけていた。
胸の中に何かしらの思いがすごくあるのにそれをうまく言えず、自分でもよくわからなくて、でもそれを諦めて振り切れるほどの潔さもなくて、ただただ未来がわからないまま、必死で自転車をこいでいた、わたし。
大丈夫だよ。あなたが思う道で合ってるよ。
今はわからないかもしれないけれど、大丈夫。
大丈夫だから。 
そう思って、今の状況も似たようなものであることに笑えた。
だけど、未来と今と過去が繋がってるってこういうことなんじゃないかと思う。
きっと今のわたしにも、未来のわたしが言っているのだ。
大丈夫だよ、って。


結婚式によせて。
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素敵な結婚式だった。
彼女らしい、あたたかくて変な重さのない、澄みわたる青空がよく似合う結婚式だった。
すばらしいオーシャンビューの中、やさしそうな彼と一緒に鐘を鳴らす姿がまぶしかった。

久々に会う友だちもたくさんいた。
変わらなかった。だけどそれぞれ変わってた。
当たり前だ。8年も過ぎたのだから。
笑い合う。普通に沈黙になる。思い出話がいくらでも出てくる。疲れて眠る。現状を聞く。
変わんねぇなぁ。
そう思いながらも、確信できたことはひとつだけ。

それぞれの道を歩いている。
わたしたちは、変わらず、変わりながら、それぞれの道を歩き出した。
結婚したり、保育士したり、職種変えたり、仕事辞めたり、子どもを育てたり、
そうしながら、自分の人生を生きることで、誰かの人生をも生きているのかもしれない。
あなたはわたしで、わたしはあなたで。
わたしがわたしの人生を生きることで、あなたの分も生きている。
あなたがあなたよの人生を生きてくれることで、わたしの分も生きてくれている。
きっと、ただそれだけだ。
それだけだよ。


毎日がエブリディ。
学生のころ、友だちが言い間違えて迷言を残した。
「毎日がエブリディ」
たぶん、毎日がスペシャル〜♫的なことを言おうとして間違えたんじゃなかったかなと思う。そこはあまり覚えてないけれど。
「毎日がエブリディって、そのまんまやん!!」
そう言って転げるように笑った。
今回も、ふとした会話の中でその迷言を誰かが口にした。思い出し、たまらなくなって笑う。
でも一人になって思った。それってほんとうにそうかも…。
「毎日がエブリディ」そんなこと忘れて生きてないだろうか?
「一週間でエブリディ」「一段落してからがエブリディ」という感覚になってないだろうか。
毎日なのだ。毎日生きている。
かつて、東井義雄先生はこんな言葉を残されている。

“明日がある あさってがあると考えている間は なんにもありしない かんじんの 今さえないんだから”

まさにこれだーーー!!!
イコール毎日がエブリディ!!!
そういうことだったのかーーー!!!
と衝撃を受けた。
毎日がエブリディ。
まじで毎日がエブリディ。
365日いつでも毎日がエブリディ!!!


さよならはまたね。
さよならはさみしい。
駅のホームで最後に一緒だった友だちとわかれる。
電車が、見えなくなる。
こういうとき、すぐにネットの海に飛び込んでしまう。あぁでもちゃんとこの感覚を味わおうとスマホを置き、ぼんやりとする。
電車がくる。
よし、と思いながらキャリーバックを持ち上げ電車に乗る。
履いていたパンプスが片方、電車とホームのあいだに落ちる。
唖然とする。
片方ないまま岡山駅まで行くのか、恥ずかしいな、あぁ靴買わなきゃいけないかな?そのまま車に乗ろうかな?あのパンプス気に入ってたのにな…。
ってか駅員さんに言おう!!!という思考回路になんとかたどり着き、ギリギリで電車を降りて改札の駅員さんに「靴が落ちたんですけど」と伝える。

「子どものですか?」
「わたしのです」
駅員さんがわたしの足元をみる。

そんなやりとりののち、無事駅員さんに拾っていただくことができた。
ありがたい…。
そんなこんなで、(他にもいろいろあった気もするけれど)今回の旅はおわった。

わたしは相変わらず自分の今の状況がうまく言えなかった(気がする)けど、みんなが「明日から仕事がんばろ〜」と言っているのを聞いて、わたしもわたしの今のしごとをがんばろうと思った。
短大のとき、サークル活動で出会った照明さんが言われていた。
自分たちの仕事は娯楽の仕事だから、だからこそ真剣にやらないとできないんだ、って。
そんな感じ。
毎日がエブリディを忘れずに。


『目に見えるものが真実とは限らない。何が本当で何が嘘か。この世界は現実なのか。あなたの見ている夢なのか。コンフィデンスマンの世界にまたいつか』
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たとえば愛が厳しさなら、やさしいとは何なのか。

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07:15 起床 ごはんを食べ、洗濯をする。

08:30 日課となりつつある筋トレとストレッチをする。カラダを鍛えている感は好きだ。今日はふくらはぎに注目した初めてのストレッチをした。

09:30 今日は絵を描く日だ、と思い入っていた予定をキャンセルしてしまう。どうせなら絵本を作りたい、と思い、調べる。絵本の真ん中になる部分に絵を描いてはいけない、サイズがいろいろある、等いろいろある。絵本の作品を募集している企画はないか、と思い調べるが2018年バージョンは終わっているところが多く、放棄する。

酵素玄米を炊き始める。

今までは絵を描くのに、人にあげるとか、なにか目的をもって描くほうが描きやすかった。だからやっぱり目標をもとう、と思い調べるがだんだんわからなくなる。
そもそも人を意識してる時点で、それって何だ?誰かの評価のために描くのか?評価されればそれでいいのか?そのためにやるのか?なぜ描きたいのか?
今社会にいない意味はそこにあるんじゃないのか。
仕事をしている場合ではないと、何をするために飛び出したんだ?
そういうときだけ、“社会で生きたかった、みんなみたいに”とえんえん言う自分が出てくる。
泣いてなよ、勝手に。

12:00 昼食をとる。かぼちゃスープが食べたいという自分のためだけに重ね煮かぼちゃスープを作ってあげる。えらい、と自分で自分を褒める。
 
14:00 酵素玄米を炊き上げ、釜に入れてから銀行に行く。なんとなく行くのが憂鬱だった用事事を銀行のお姉さんに伝えると、なんてことなく手続きを済ませてくれる。
「お待ちください」と言われて銀行の椅子にぼんやり腰掛けてニュースが流れているテレビを見るふりをする。 

そうしていると、急にやってきた。

自分が見ている世界は、自分の内側の反映だという。
ということは、世界にわたしの内側が映っているわけであり。
受付のお姉さんがなんだかとても素敵だった。
世界には自分の内側が映る。
だとしたらこの人は、もしかしたら仕事を苦と思っていない可能性があるんじゃないか、と感じた。
仕事してる私大好き♥♥みたいな。もしくは週末になって、「あーー明日から休みだー!!」ってなる瞬間が楽しみすぎて仕事楽しんでたりとか。
仕事そのものに生きがいを持ってたりとか。

なぁんだ、みんなやりたいことやって生きてんじゃん、と思った。
楽しんでるじゃんか。

そう思うと上も下もなくて、なにがいいとか、正しいとか、こうしなければならない、とかもなくて、そこにあるのはただただ自分だった。

自分の世界だった。

天啓だ、と思った。(天啓って言いたいだけかもしれません)

15:00 絵を描き始める。途中丸をたくさん描いているとだんだん眠たくなって白昼夢をみる。
白昼夢って普段見る夢よりも不思議だけど、そのぶん頭では理解できないマジなこと言ってんな、と思う。

18:00 たまたま用があって家に来てくれた友だちに今日のことを話す。友だちは「わたしは見てる世界には内面がすべて映ってると思ってるから、夫がちょっと引っかかることを呟くと、まだまだわたしの幸せ感が足りないんだな、もっと自分が幸せになっていいよってことだな、と思う」と言う。
「さすがです」と笑い合う。

そんなこんなで絵を描いた一日でした。

タイトルは「夜はやさしい」。

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夜ってやさしいと思う。なにしてても“いいよ”って言ってくれているような。朝がくるのがこわい、は聞いたことあるけど、あれはたしかに朝だった。
夜と昼間の思考はちがう。別世界にいるみたいだ。
最近はずっと“月夜のでんしんばしら”が気になっていた。
夜は、でんしんばしらが歩き出しても不思議じゃない。
ぬいぐるみだってダンスするし、月の照らす道を通って冒険にだっていける。

夜は、やさしい。

あのやさしさって、なんなんだろうか。

わたしは誓いのキスができなかったのだ、あの時に。

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目を覚ますと世界が変わっていた。
部屋、置いてあるもの、配置、なにもかも一緒なのにまるで別世界に来たようだった。
こういうときが、たまにある。ほんとにたまに。
たとえば、すきな誰かができたとき。たとえば、ずっともやもやしていた問題が誰かの一言でぱぁっとなくなった次の日。たとえば、新たな道を踏み出したその最初の日。
そういうとき、世界が急にみずみずしくなって、なにもかもがくっきりと見えて、無敵だ!!!というな気持ちになる。
昨日の場合は、ドラマ「おっさんずラブ」の最終回を見たからだと思う、あきらかに。
わたしの人生に大きく関わる3つめのドラマとなった、おっさんずラブ
もし、これを読もうとしてくれていて、おっさんずラブ見ようと思ってるけど最後まで見てないよ~、という方がおられたら申し訳ないですが回避してください。
まったく見てない方は、大丈夫です。



1、おっさんずラブに学ぶ。
おっさんずラブの主人公春田は、めちゃくちゃ優柔不断で、素直でお人好しだけど、自分の本当の気持ちがわからないまま流されてしまうところが多々ある。
そんな彼は、なんだかんだ(もう本当にいろんなことが)ありつつ、最後にはなんとなくでプロポーズまでオーケーしてしまう。若干の違和感は抱きつつも、そのまま結婚式へと進む流れに逆らえないでそのまま当日を迎える。
こうやって書くとただのめちゃくちゃなやつにしか見えないな。笑
そして迎えた当日。「それでは、誓いのキスを」と言われたときになって初めて、その相手とキスができない自分に気付く。
そこで本当に大切な一人に、やっと気が付く。
というわけで最高のハッピーエンドとなりもうめちゃくちゃ幸せに朝を迎えた私ですが、今日、思った。
春田みたいに、結婚式場まで流されてることって日常のなかで結構あるんじゃないだろうか。

それはなにも恋愛に限らず。いろいろな面で。

春田は、なんとなくプロポーズをオーケーしてしまった相手ことを、尊敬していたし、あこがれていたし、頼りにしていた。人間としてはすごく好きだったはずだ。
でも、キスはできなかった。そういう相手ではなかった。ただそれだけ。
わたしが仕事として今までやってきたこと。きらいじゃない部分もたくさんあった。流れにのってきていたのかもしれない。そのままいけば、安泰していたのかもしれない。
でも、では誓いのキスを、と言われたときに、あ、あ、ちがう、これじゃない、と思ったんだろう。きっと。

キスができないでいる春田に、その相手はこういった。
「はるたん、神様の前で嘘はつけないね」
そうして、春田が本当に好きな彼のもとへ、気丈にも送り出してくれたのだ。

わたしたちも、自分を騙すことはできても、自分に嘘をつくことはできないんじゃないかと思う。だってほんとは、“自分”は知っているから。騙している間は”騙されてくれている”だけに過ぎないんじゃないか。きっと、そうやって待っている。
式場から飛び出して、抱き着きにきてくれることを。

2.海に出よう。
だけど、「今どうしてるの?」と聞かれると正直困ってしまう。ずっと家にいるわけではないけれど、仕事を始めたわけでもなく、かといって遊びほうけている意識もなくてどちらかといえば収入にならない仕事(勉強)をしている感覚はあるけれど、端的にいうと遊んでいるだけなのかもしれない。なのでそういうことをむにゃむにゃと説明するしかないのだけれども、うまく伝えられない。
わからない。

でもわたしが今言えるのはこういうことだ。
「海って、広いよ!」

仕事を辞めることは、ずっとあてのない航海に出るようなものだと思っていた。おおげさかもしれないけれど。
だけど、実際に出てみると、海は広かった。
広かったんだ。
水面は太陽が反射してきらめいている。向こうには、ただただ広い水平線。
知らなかった。きっと広いだろうな、きれいだろうな、と思っていたけれど、こんな
海が本当に眼下に広がる世界があるなんて。
海は、荒れる日もある。雨の日もある。だけども、そんなの陸地にいたってあるじゃないか。
広い、海だった。
いったいどこを目指すのか。どうやって飢えをしのぐのか。
わからない。
こんなこと言ってると怒られるかもしれない。
だけど、あのとき誓いのキスができなかった。春田が式場を飛び出して牧を捜しに行ったように、わたしも式場を飛び出して船に飛び乗った。
あざやかな、青!

大好きな大島弓子さんの漫画「毎日がなつやすみ」という話の最後に、こんな一文がある。

考えてみれば、あの日あたしは、まぶしい永遠の夏休みを手に入れたのだと思う。
計画する。実行する。失敗する。出会う。知る。発見する冒険とスリル。自由と喜び。
今、私は海外出張から戻ったところだが、海で思いきり泳いだ後のような気分がしている。

これがすごく理想で、大好きな言葉。

ほんとうはもうなにも言わないほうがいいかもしれない。数日後に「あ、やっぱちがったわ」ってなるかもしれない。不安とか、焦りとか、なにもないわけはない。
ないけれど、もうしらん。
今の感情は、今だけだ。
今のことばも、今だけだ。
今を愛するって、こういうことだといいな、と思う。


3.ペンネンネネム in the forest にある電話。
先日、須磨のペンネンネネム in the forest という、絵本はもちろん、絵本をテーマにしてお店の雰囲気やメニュー作りをされているカフェに行った。
とてもすてきなカフェだった。
(須磨のペンネンネネムは完全予約制ですが、おすすめです)
そのなかのスペースの一角に、電話がおいてあった。
そこにはこう書いてあった。f:id:yuki6225:20180603230053j:plain


「これは べんりでんわ とおくのともだちと おしゃべりできる」

この、電話をみんなが持っている時代に。
ここのべんりでんわから電話をかけるとしたら、誰にかけようか?
ずいぶん悩みました。
かけるなら夜がいいなぁ。夜中の、でんしんばしらの下で。

誰に、でんわをかけたいですか?

思いを出すことと自分をアップデートすることは似ている。

 

 

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部屋をまっくらにし、寝転がる。

窓の外はまだ少し明るく、ぼんやりと部屋の輪郭が見える。

そうして、自分を少しずつ空っぽにしていった。

 

なにかをしなきゃいけないとか、食後に寝転がるとどうだとか、そんなものを少しずつ捨てて空っぽにしていく。ちょうどスマホも低速になった。

 

虫の声と、空のあかり、風の心地よさ、静かな音。

 

たったこれだけのことがどうにもできなかったのだ。

 

1.仕事をやめた。

3月末で退職した。するとなんと、退職した後にも世界は続いていた。

それくらい自分の中では衝撃的だったのだけれど、この世界にきて二カ月、(世間的に)なにもしてないといえばしていないし、勉強をしているといえば毎日勉強している気もする。

やめてからすごく驚いたことがある。あまりに当たり前かもしれないけれど、世界は毎日全然違っていた。

今までは一週間、一カ月、そういう単位で日常をとらえていた。そういうもんだと思ってた。

でも一日経てば考えは変化するし、自分の身に起こることもたくさんある。なんだ。そうだったんだ。知らなかった。というか忘れていた。今日で5月が終わるけど、もう一年くらい経った気がする。

 

2.ドラマを楽しみにするように。

なんだか書きたいことが他にもあった気がするけれども、はてなブログのやり方に慣れないうちにうだうだしていたら新鮮味が失われてしまった。なので今思っていることを書こうと思う。

最近ドラマ「おっさんずラブ」にハマっている。この前の展開がすごすぎて、もうこんな気持ちになるんならこの二人を知るんじゃなかった、と思わず思ってしまったほどだった。ハマっている人の中にはツイッターおっさんずラブ専用アカウントを作っていろいろ考察したり、呟いたりしている人も多数いる。

月曜日、きっと学校や会社に行って友だち、同僚とその話をしたり、「もう学校(仕事)なんかやってらんねーよ!」って思った人もきっといる。

そんなことを思った時にふと考えた。

でもそれは、自分の物語じゃない。

どんなに考えたところで、どんなに案じたところで、わたしたちはテレビの前の視聴者にすぎない。なにかを言ってあげることも、行動に移すこともできない。ただ、展開にハラハラしながら見守ることしかできない。

彼らについて考えたり、自分なりに話を考えたりすることがわるいと言いたいんじゃない。わたしだってやる。

でもそこに、ふたつ思ったことがある。

 

ひとつめは、それをドラマだけでなく自分の人生でしてもいいんじゃないかということ。

ドラマにあれだけ夢中になれるのは、ある意味自分じゃないからなんだろうか。安心して第三者視点から楽しめるから、なのかもしれない。

でもちょっと、もったいないような気もする。

例えば自分の人生がドラマだとしたら。途中で区切り区切り、毎週放送されているとしたら。それはそれで、きっと次週の展開がどきどきするんじゃないだろうか。

えっ、ここでこの人登場するの!?とか、めっちゃ上司に怒られてる~ここの気持ちすごく共感するわ~、とか、がんばってきた甲斐があったね…!(涙)とか、まさかの転勤!?とか。

主人公が自分でその気持ちに寄り添って丁寧に作ってあるドラマだとしたら。きっと夢中になって観れるような気がする。

それはこれからも一緒で。これから先、どうなるかぜんっせんわからない、予告さえもないドラマだけど、「来週の展開はどうなるんだろ~」って、それにどきどきハラハラしてもいいんじゃないか。

 

ふたつめは、それでもドラマの世界は生きているということ。

嘘かもしれない。だれかの作りものかもしれない。というか当然そうだ。そうだけど、こうして生きて、その中で出会った、ということは、それはもう生きている。

現実世界のどこか遠いところに住んでいるだれか。その人の住所を知ることができれば手紙は書けるだろう。だけど、知りえない。そうして一生出会わずに生きるお互いより、テレビだろうと漫画だろうと小説だろうと、この生きている自分の世界の中で出会ったその人たちは、よっぽどリアルに生きているとわたしは思う。

だから、どきどきするんだ。だから、気になるんだ。だから、好きなんだ。

そういうことを思いながら、おっさんずラブの最終回を迎えたい。

 

3.フロントガラス理論。

先日雨の日に車を運転していた。結構ざあざあ降っていて、激しく打ち付けてくる雨粒をワイパーが必死に何度も拭いてくれていた。

そのとき。一瞬だった。

あ!泥水がかかった!

体中に泥水がかかった自分の姿が脳裏に浮かび、反射で体を硬直させ目をぎゅっとつぶった。

目を開けると。

泥水をかぶった自分の姿なんかどこにもなく、ただフロントガラスに泥水がかかっており、それをワイパーが拭きとってくれたところだった。

当たり前だ。

当たり前だけれど、一瞬本気で泥水をかぶったと思ってしまった。

なんかこれって、人生と似てる気がする。

本当は何をしても安全で制限はなくて、フロントガラス的なもので守られているのに、こわい!と脳裏に映った映像を見ている。

だけどほら、目を開けると自分になんの被害もないじゃない。

そうなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

冒頭で、たったこれだけのことがどうにもできなかったのだ、と書いた。

だけどそれは、別に会社のせいでもなんでもなかった。

できない、と思い込んでいたんだ。自分で。

そんな自分でいていいわけない、と。

だけど、もしなんでもよかったら。だれもなにも、今の状況もお金もなんにも関係なくて、なんでもできるとしたら。

 

どんな歌をうたおうか?