自然への畏怖。おそれていたのは、わたしだ。
持ち物は、おにぎりふたつ。あとぼりたてのきゅうり。
それをカバンにつめて。
今日の冒険に、出発した。
自然の畏怖と猿尾滝。
猿尾滝。
日本の滝100選に選ばれたとかなんとかいう、滝。
ふと行きたくなった。
だけど1、2年前に一人で行ったとき、自然の畏怖をとても感じて、こわくてこわくて近付けなかった。
そんな滝。
でも、「神さま」っていう存在は自分より立場が上であがらえない存在ではない、なぜなら全部自分だから。
自然だってそうだ。
そういう話を聞いて、それなら行けるかも、と思った。
久々の猿尾滝に到着すると、一組の観光の方がちょうど帰られるところだった。ペコリと会釈をしてすれ違い、滝に向かう。
今日の猿尾滝は、なんだか穏やかに感じた。
なるべく滝の近くまで行く。
ごうごうという音が近づいてくると、少しこわい。
でも近づけるところまで近づいて、川の中の大きめの石に座り、滝を見上げた。
どうどうという音をたてながら、勢いよく流れてくる、滝。
滝の音がすごくてそれが静けさを奪い、静けさの代わりの音になり、逆に川のせせらぎの音がふと耳に飛び込んできたりする。
ただ滝を見上げる。
激しく岩を打ち付ける滝は、一秒だって止まることはない。
それを見ていて、わかった。
あのとき、わたしは、滝に自分を見ていたんだ。
いつまでもとどまらずに激しく流れる滝がまるで本気の自分のようで、怖かった。
情熱のある人は好きだ。だけど同時に怖い。
本気の部分が見えると、それに焼かれそうだと思ってしまう。
自分にもあるにも関わらず。
だから、滝が見れなかった。
でもそれも自分の一部だ。
滝だって、自然だって、神さまだって、自分の一部のように。
ただただ滝の一点を見つめていると、大きな岩たちがゆるやかに動いているように見えて、あぁ生きているんだな、と思った。
涼しく頬をなでていた風が、ふっとあたたかい布団のように身体を包んでくれているように感じた。
わたしはどうしたらいいの?と滝に聞く。
すると。
『もっと狂え。もっとあなたの感性で生きろ。』
そう、言われている気がした。
自然はただただそこに在るだけだ。
自然はやさしい。
そこに自分を投影して、厳しかったり、威圧していたのは自分だ。
ただ、在るだけだった。
「もう、いきなさい」といわれても、久しぶりに母にあった小さなこどものように、離れがたく思った。
いつまでもいつまでも、見ていたかった。
狂え。ほんとうにそうだ。
もっともっと狂ったっていい。
この前、TSUTAYAでふと目に止まり、気になって星野源のアルバムを借りた。
ポップな曲を歌っている人だ、くらいの印象しかなくて、全然興味もなかったけど、アルバムを聴いて初めて思った。
あんなに草食系の顔をしているのに、この人、からだの中に獣がいる。
その獣をぐわんと出して、それで曲作ってる。
想像以上に(いい意味で)狂ってる。
もちろんただの個人の感想だけれど、その狂い具合がすごく好きだと思った。
また、今日見た本の中にこんな言葉があった。
(メモしてないから言葉がちょっと曖昧だけど)
“あなたがげらげらとわらいだすまで
わかった、やってみるよといいだすまで
いますぐにここでそれをためすまで
わたしはつたえることをやめない”
(「yes」高砂 淳二、覚 和歌子)
それだ。
今日は猿尾滝のあとに植物園にも行ったんだけれど、まるで小さなアリスになったかのような気持ちで冒険した。
ほんとうに物語を追っているようだった。
それは次のブログで………(書けますように)
最後に、大好きなcafe Lokahiさんで頼んだアイスコーヒーの琥珀色が、まるで夕焼けみたいで、まるでどこかの国がこの中に存在するみたいで、とてもきれいだった。